祈りのポリティクス——『キリエのうた』論(1)

しかし、いま、まさに死んでゆく者に対して、その手を握ることさえ叶わないとき、あるいは、すでに死者となった者たち、そのとりかえしのつかなさに対して私たちになお、できることがあるとすれば、それは、祈ることではないのだろうか。

岡真理『アラブ、祈りとしての文学』(2008年、みすず書房、301頁)

 見渡す限り真っ白な雪原の上を、学生服を着た二人の女の子が歩いている。カメラはその姿を空から遠巻きに捉えている。ふいに、一人の女の子が歌い出す。

〈もう 終わりだね 君が小さく見える〉

 オフコースの「さよなら」。スクリーンを覆う白色に、彼女の歌声が重なる。

〈「僕等は自由だね」いつかそう話したね〉

 彼女が歌うこの〈自由〉は、何を意味しているのだろう。何かから解放された自由なのか。それとも、どこへでも行けることをただ感じた自由なのか。わからない。いずれにせよ、その自由を感じた〈いつか〉とはいつのことだろう。過去であるのは間違いない。では、今はどう感じているのだろう。自由ではないと感じているのか。今も自由だと感じているのか。

 いや、こうも考えられる。彼女はただ、二人で雪の中を歩きながら頭の中に浮かんだ歌を口ずさんだだけだった。もう一人の彼女も、ただそれを聴いていただけだった。そこに特別な意味はなかった。でも、それこそ自由といえるのではないか。この世界に、彼女が歌うことを咎めるものは誰もいない。彼女が聴くことを咎めるものもいない。それは、彼女たちが生きることを咎めるものはいないということだ。彼女たちの自由は、すでに、ここにあるのだ。しかし、だとすれば、なぜ〈さよなら〉なのだろう。歌う/聴くことで、彼女たちは、だれに、何に、〈さよなら〉するのだろう。

 透き通った、しかし触れれば崩れてしまいそうな余韻を残しながら、舞台は2023年の新宿へと移る。『キリエのうた』はこのように始まる。

 本作は岩井俊二監督・脚本による音楽映画だ。音楽映画と一口に言ってもさまざまなバリエーションがあるが、主人公の一人であるキリエ/路花(アイナ・ジ・エンド)がシンガーソングライターであり、彼女のオリジナル曲が劇中で演奏され、それが物語において重要な位置を占めている、という意味で本作は音楽映画である。と同時に、本作は東日本大震災を描いた映画でもある。物語の核心には、登場人物たちの震災の経験が深く関わっている。本作を観ながら、わたしは東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」が岩井による作詞であったことを思い起こした。震災と音楽というテーマの上で、本作は「花は咲く」と地続きにある。

 2012年に発表された「花は咲く」から2023年の『キリエのうた』へ、11年の歳月を経た岩井の表現に底流しているものは何か。違いがあるとすれば、それは何か。ふたつの作品の比較をとおして考えてみたい。