「ハンドルネームミリしら」の遊び方

 突然ですが、ハンドルネームメーカーというサイトで無限に名前を生成してプロフィールを考える遊びにハマっています。

 ひとりでも複数人でもでき、動画実況者の方にもおすすめです。以下に遊び方を解説します。

 

〜ハンドルネームミリしら〜

・使用するサイト

ハンドルネームメーカー | ナマエメーカー

 

・プレイヤー数

1〜10人程度

 

・遊び方

①ハンドルネームメーカーで名前を生成します。

②プレイヤーは生成された名前に合うプロフィールを考え、述べます。

③人物のプロフィールとして思いつかない場合は、物の名前や作品のタイトルとして考案しても構いません。

④設定が何も思いつかない場合は、感想を述べるだけでも構いません(「難しい」、「なんかかわいい感じがする」など)。

⑤特定の人物や団体を中傷するような名前や、差別的な言葉の羅列が生成された場合は、スルーして別の名前を生成してください。

⑥複数人でプレイする場合は、順番に述べたり、他のプレイヤーにツッコミを入れたり、一緒に考えたりしながら遊びましょう。

⑦この遊びに勝ち負けはありません。飽きたらゲーム終了です。

⑧以上は基本ルールです。ローカルルールは自由に設定して構いません。思い思いのやり方で、楽しく遊びましょう。

大友良英スペシャルビッグバンド@新宿PIT INN 2023昼の部ライブレポ

 フリージャズ〜タンゴ〜スカ〜ロック〜映画音楽〜歌謡曲と次々にジャンルのボーダーを飛び越える。でもそれは特別なことではなく、というのもひとりの演奏者が影響を受ける音楽は当然さまざまあり、しかも人が複数が集まればそのぶん多くの音楽の文脈が交差するわけで、だからこそ細田成嗣さんによる最新のインタビュー(https://tokion.jp/2023/12/27/interview-yoshihide-otomo-part2/)でも言っていたように、大友さんは極めて「パーソナルな音楽」をやっているのだと思う(このインタビューはギターとターンテーブルの演奏の話ですが)。

 ライブは2セット+アンコール、2時間半を超える長丁場。これで4days8公演を毎年やっているのだからすごすぎる。

 とりわけおもしろかったのは新曲「スモールストーンキュー」(表記不明)。演奏者全員が指揮者になるSmall Stone Ensembleの方法論でスペシャルビッグ用に書いた曲だと思われる。メンバーが自由自在に交代に、時には同時に、ハンドサイン(キュー)を出しながら大きなグループと小さなグループができては崩れ崩れてはできて……と、リズムの重心がどんどん移ったり同時に複数あったりするのがとてもおもしろかった。

 で、これは大友さんが吉田屋に着想を得てONJOを始めたときからやろうとしていたことなんじゃないか、と思う(http://www.japanimprov.com/yotomo/yotomoj/essays/yoshidaya.html)。この文章の最後にはイラク戦争時の鶴見俊輔の文章が引用されているのだけれど、さて、Small Stoneと聞いてわたしが思い起こすのは——この言葉は小泉今日子さんのツイートに由来するそうですが——イスラエル軍に石を投げているサイードの写真。小さな石を投げる行為と心地の良い宴会のような音楽という取りあわせ。Small Stoneは大友さん流に吉田屋と鶴見俊輔の思想を実践する方法論なのだと思うけれど、それは二民族による共存を訴え、石を投げたサイードの思想にも共鳴しているように思う(じっさい、大友さんは昔書いた文章でサイードの『文化と帝国主義』を取り上げていた覚えがある)。

 ゲストでタップダンサーのリュウガさんとエリック・ドルフィー。いま18歳で、大友さんとは小学生のころからの付き合いとのこと。それにしてもエリック・ドルフィーでタップダンス、世界初なのでは。後半はハンドサインを出しあってサンバ調になり(ドルフィーはどっかいった)、かなり白熱した演奏になった。

 アンコールではSachiko Mさん、上原なな江さん、相川瞳さんの3人による、まさかのダンスと歌で「暦の上ではディセンバー」! めっちゃ楽しかった。来年もまた観たいです。

 今年のブログの更新もこれで終わりかな。あまり読む人はいないと思いますが、書いておけばいつか誰かが読むかもしれないと思って書き始めました。来年はもう少し更新頻度を上げたいです。今年もありがとうございました。

柴田聡子ひとりぼっち’23@大手町三井ホール、めっちゃよかった

 めっちゃよかったです。

f:id:isatosui:20231126191433j:image

 今回、柴田聡子の弾き語りライブである「ひとりぼっち」を初めて観たのですが、めっちゃよかったです(2回目)。

 現時点での最新アルバム『ぼちぼち銀河』のリリースライブのバンドセットを観た以来で、そのときはアンコールでファーストアルバム『しばたさとこ島』を全曲弾き語りするという展開に圧倒されたのですが、今回は全編弾き語りということでこれまた圧倒されてしまった。

 2daysで開催されたこのライブの1日目は「友人」、2日目は「外出」というテーマが設けられていて、これは本人いわく自身の楽曲を大別するとだいたいこのふたつに分けられるからとのこと。たしかに。

 で、わたしが行ったのは2日目の「外出」。開演時間の17時ぴったりに出てきて『ぼちぼち銀河』収録の「旅行」で幕開け。全曲のセットリストは以下です。アコギ、テレキャス、エレピと多彩な弾き語り。https://x.com/sbtstk_staff/status/1728723521138802937?s=46

 柴田聡子の歌には高音でぽーんっと放り投げるようなメロディが多用されると思うのですが、ライブではDub Master Xによってそのぽーんっと放り投げるところにリバーブとディレイがかけられていて、そのメロディと歌の軽やかさがより強調されていました。

 「ワンコロメーター」は岡田拓郎から借りたというカシオのデジタルギターで演奏。

ふふふ文化祭で渋さ知らズを見てきた

 西千葉のZOZOの広場+緑町公園+HELLO GARDENで開催された「ふふふ文化祭」に行ってきた。

ふふふ文化祭 | EVENT | HELLO GARDEN

f:id:isatosui:20231103170841j:image

 主催はふふふ文化祭実行委員会(緑町公園管理運営委員会)。運営の株式会社マイキーは、西千葉を拠点にまちづくりの企画プロデュースを行っている企業とのこと。会場の案内にはマイキーと並んで株式会社ZOZOの名前もあったので、部分的に共同で運営なのかも。写真奥に写るカーブした屋根の建物がZOZOの本社。西千葉にあるのは初めて知った。本社の向かいにZOZOが運営しているカフェがあり、その敷地内にはあるブランコで子どもが遊んでいた。駅前以外はほぼ住宅街なので、かなり異彩を放つ建築物だと思った。

 会場のうち、ZOZOの広場とHELLO GARDENは元々空き地だった土地に上の2社がそれぞれ手を入れて、地域のためのフリースペースになったのだという。憩いのスペースであるほか、こうしたイベントやマルシェなどで活用されているようだ。

 今回のふふふ文化祭には地域の雑貨屋さんや飲食店のほか、けん玉スペース、染め物体験、指輪作り、うつわ作りなどのワークショップが出店されていた。子どもは駆け回ったりワークショップに参加したり、大人はレジャーシートに座って酒を飲んだり立ち話しながら酒を飲んだりしていて、楽しそうだった。実際来ていた人のどれほどが住んでいる人かはもちろんわからないが、地域に密着したイベントであることがうかがえた。

 で、今回このイベントになぜ行ったかというと、ステージに出演するミュージシャンのラインナップに惹かれたからだったのでした。出演したのはU-zhaan×環ROY×鎮座DOPENESS、DJ RINOKA、渋さ知らズの3組。1組目は言わずもがなのタブラ奏者とラッパー2人のセット、DJ RINOKAは小学生DJとのこと。が、都合がつかず渋さ知らズだけを見に行くことに。

 この地域密着感に、場末のフリージャズロック小劇場(?)である渋さ知らズが出てきたらいったいどうなっちまうんだ……と思っていた矢先、サウンドチェックとして演奏がスタート。

f:id:isatosui:20231103201011j:image

 すげえ爆音だ!!!!!!!!!!!!!!

(本チャンからは音量が下がりました)

 定刻になり、リーダーの不破さんが挨拶とメンバー紹介をして演奏スタート。1曲目はビクトル・ハラ「平和に生きる権利」(El derecho de vivir en paz)の日本語カバー。渋さの定番曲だが、「あなたを愛し生きる権利を」という言葉にいま、強い意味をこめて聴いた。

 そのままメドレーで1時間ぶっとおしの演奏。何曲聴いたかは盛り上がっていたのでわかりません(すみません)。どんどんヒートアップする演奏と、パフォーマーたちの一挙一動に目が釘付けだった。特に「本田工務店のテーマ」ではかなりのお客さんがわーっと手を上げて、かなり熱狂的な雰囲気でした。最高〜!! 

f:id:isatosui:20231103230546j:image

 途中、ダンサーが客席側におりてお客さんと一緒に踊る場面もあった。演者と観客はステージを境目にしてヒエラルキーができてしまうけど、この瞬間にその垣根が崩れるのを感じた。また、楽器を持たずほぼ座っているだけ(たまにチューバのマイクを直す)の演者もいて、渋さという土壌の広さ、豊かさに驚いた(というか笑った)。この土壌のうえでは、あらゆるパフォーマンスが共存できるのだ。

 さて、このイベントに行く前、イスラエル軍のキャンプでミュージシャンが歌い、コール&レスポンスがおこなわれ、兵士たちが熱狂するという映像を見た。詳しくは高橋健太郎さんのX(Twitter)への投稿を見てほしい(https://x.com/kentarotakahash/status/1720239803093131267?s=46)。

 音楽が人を戦争へと駆り立てるさまは、見るのがつらい。音楽には力がある。その力は人を熱狂させ、方向づける。だからときに、人を戦争へと駆りたてる。音楽が人を殺すし、殺させる。それはこれまでも繰りかえし起こってきたことで、そしていま、たしかに起こっていることだ。音楽から力をなくすことは、たぶんできない。では、どうすればいいのだろう。

 かつて、ロジェ・カイヨワは、戦争と祝祭の類似性を指摘した。戦争も祝祭も、どちらも蕩尽するものだ。音楽の力をどうしてもなくすことができないのであれば、それを戦争に利用するのではなく祝祭において華々しく散らすべきではないか。戦争のためにではなく、「平和に生きる権利」を祝う祭のために踊ること。なおかつ重要なのは、音楽に踊らされるのではなく、音楽で踊ることだ。なんのために、なぜ踊るかを考えたうえで踊ることが、音楽の力に踊らされないために必要だと、わたしは思う。

 駆けまわる子どもたちと、お酒を飲んで話して踊る大人たちと、渋さ知らズの音楽の渦のなかで、そんなことを考えたのだった。楽しかったです。

祈りのポリティクス——『キリエのうた』論(1)

しかし、いま、まさに死んでゆく者に対して、その手を握ることさえ叶わないとき、あるいは、すでに死者となった者たち、そのとりかえしのつかなさに対して私たちになお、できることがあるとすれば、それは、祈ることではないのだろうか。

岡真理『アラブ、祈りとしての文学』(2008年、みすず書房、301頁)

 見渡す限り真っ白な雪原の上を、学生服を着た二人の女の子が歩いている。カメラはその姿を空から遠巻きに捉えている。ふいに、一人の女の子が歌い出す。

〈もう 終わりだね 君が小さく見える〉

 オフコースの「さよなら」。スクリーンを覆う白色に、彼女の歌声が重なる。

〈「僕等は自由だね」いつかそう話したね〉

 彼女が歌うこの〈自由〉は、何を意味しているのだろう。何かから解放された自由なのか。それとも、どこへでも行けることをただ感じた自由なのか。わからない。いずれにせよ、その自由を感じた〈いつか〉とはいつのことだろう。過去であるのは間違いない。では、今はどう感じているのだろう。自由ではないと感じているのか。今も自由だと感じているのか。

 いや、こうも考えられる。彼女はただ、二人で雪の中を歩きながら頭の中に浮かんだ歌を口ずさんだだけだった。もう一人の彼女も、ただそれを聴いていただけだった。そこに特別な意味はなかった。でも、それこそ自由といえるのではないか。この世界に、彼女が歌うことを咎めるものは誰もいない。彼女が聴くことを咎めるものもいない。それは、彼女たちが生きることを咎めるものはいないということだ。彼女たちの自由は、すでに、ここにあるのだ。しかし、だとすれば、なぜ〈さよなら〉なのだろう。歌う/聴くことで、彼女たちは、だれに、何に、〈さよなら〉するのだろう。

 透き通った、しかし触れれば崩れてしまいそうな余韻を残しながら、舞台は2023年の新宿へと移る。『キリエのうた』はこのように始まる。

 本作は岩井俊二監督・脚本による音楽映画だ。音楽映画と一口に言ってもさまざまなバリエーションがあるが、主人公の一人であるキリエ/路花(アイナ・ジ・エンド)がシンガーソングライターであり、彼女のオリジナル曲が劇中で演奏され、それが物語において重要な位置を占めている、という意味で本作は音楽映画である。と同時に、本作は東日本大震災を描いた映画でもある。物語の核心には、登場人物たちの震災の経験が深く関わっている。本作を観ながら、わたしは東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」が岩井による作詞であったことを思い起こした。震災と音楽というテーマの上で、本作は「花は咲く」と地続きにある。

 2012年に発表された「花は咲く」から2023年の『キリエのうた』へ、11年の歳月を経た岩井の表現に底流しているものは何か。違いがあるとすれば、それは何か。ふたつの作品の比較をとおして考えてみたい。

Otomo Yoshihide Solo Works 1 Guitar and Turntable 発売記念LIVEレポ

 2023年9月10日(土)、渋谷の公園通りクラシックスで行われた大友良英さんのソロアルバムOtomo Yoshihide Solo Works 1 Guitar and Turntable | Otomo Yoshihide / 大友良英のレコ発ライブの昼の部に行ってきたのでそのレポ。

f:id:isatosui:20230912080556j:image

 まずはギターの演奏から。おなじみのU字型工具を右手に持ち、弦を引っ掻く。開始早々爆音のノイズがライブハウスに轟く。

 ギュピーーーーン!!!!ガガガゴゴゴ!!キュキュキュピーーーーン!!!!!ギャギャギャギャギャギャ!!!!!!!

 いつも思うが、どういう原理でこんな音が出ているのか不思議でならない。エフェクターをかませた上でフィードバックを起こしているとしても、それだけでこの爆発的な音にはならないのではないか。とすると、あの大友さんの手にしっかりと馴染んだU字工具を用いることでしか出せない音があるのだろう(激しい演奏のため、時折落としていたが)。なお、このとき使用しているのは写真左側のギター。ノイズを演奏するときに一番よく使用されているものだと思う。そのまま20分弱ほど演奏(体感)。

 続いてターンテーブルソロ。まずは写真中央にある白と水色の可愛らしい小さなプレーヤーを手に持って演奏。ゴゴゴゴゴゴ!!!!! というノイズが鳴り響く。見た目と音のギャップがたまらない。持ったまま揺すったり、後方の茶色っぽいフェンダーのアンプ(Blues Deluxe? 大友さんはだいたいこのアンプを使っている)に近づけたりして、音色を変化させる。こちらは短めの演奏で一区切り。個人的にはこの小さなプレーヤーでの演奏が視覚的にも見応えがあり、好みだった。

 今度は大きな2台のターンテーブルで演奏。レコードを乗せたり外したり、クレジットカードみたいなもの擦りつけたりしてスクラッチノイズを出す。ものすごい爆音。面白いのは、ギターでもターンテーブルでも、大友さんの音だとわかる音色のノイズが出るということ。音色を変化させたり音を止めたりするタイミングも関係していると思う。こうした演奏をもう何十年もやっているのだ。熟練の技で爆音をコントロールしたりコントロールしなかったりするその塩梅に、演奏者の色が出る。紛れもなく、これはノイズミュージックである。ここで1セット終了。

 小休憩を挟んで2セット目はターンテーブルから。ターンテーブルを回した状態で、片方に大きな金属のボウルを乗せ、右ポケットから何か金具のようなものを取り出しボウルに放り込む。ライブ中の大友さんの右ポケットはいつも複数の金具でジャラジャラしている。キンキンキンキンゴゴゴガガガガガガガガガ!!!!!! 不安定に回るボウルの出すリズムが面白い。

 続けてギターの演奏。今度は写真右側のギターが手に取られる。先ほどのギターはギャギャギャギャギャギャ!!! という金属的な音が出るイメージだが、こちらはじゃっかんふくよかで、甘めの音のような気がする。U字工具以外にピックでもジャギジャギやる。ノイズにも色々ある。音色豊かだ。

 それからまたターンテーブルの演奏。途中、ターンテーブルを拳で打って音を変化させる奏法が見られる。拳を打つことで音が揺れる。実に原始的な奏法だ。

 音源だけを聴くと見過ごしてしまいそうになるが、演奏というのは概して身体的・物理的なものだ。体の動き、物の動きで音が鳴る、変化する。ギターとターンテーブルから出るノイズのみ、それ以外なし、というシンプルな構成だからこそ、音が鳴ること自体へのプリミティヴな驚きがある。その感覚はどんな音楽を聴く場合にも持ち得るものなのだが、ひとたびハーモニーやリズムに心を奪われてしまうと、水面下に沈んでしまうように思う。爆音で轟くノイズは、そうして沈み込んだ音そのものへの感覚を一気に浮上させるのだ。それは例えばポップスだけを聴いていては、気づきにくい感覚かもしれない。

 だからこそ、ポップスをよく聴くためには——なんてこんな言い方はノイズに対して誠実ではないかもしれないが——ノイズが必要なのだ。逆に言えば、ポップスをよく聴くことで、ノイズの中にあるハーモニーやリズムに気づくこともできるだろう。ノイズをよく聴くためにも、ポップスをよく聴くことは欠かせない。ポップスとノイズは互いに相補的な関係にあるのだ。それを体現しているのが大友良英というミュージシャンなのだと思う。

 終演後に大友さんにあいさつしようとしたら壁に頭をぶつけた。いてててて。

f:id:isatosui:20230912211422j:image

 来場者特典&CD購入特典としてポチ袋とバッジを貰った。うれしい〜。

 この日の演奏の録音は、大友さんのレーベルLittle Stone Recordsから出るソロワークスの第2弾になるという。ちなみに第3弾はクリスチャン・マークレーのカバーを予定しているとのこと。どちらも楽しみに待ちたい。

すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り2023レポ

 2023年9月7日木曜日午後6時半。仕事を終えて錦糸町駅に向かい、住吉方面へ歩くこと5分。首都高7号線の高架下から音頭のリズムと歌声が聴こえてくる。音に向かって歩く人々がいるのに気づく。その人波に加わり、足取りが少し早くなる。会場に着く。ものすごい熱気だ。踊り狂う人々の群れが見える。その群れはどこまでも続いている。竪川親水公園特設会場。平日の夜とは思えない浮世離れした熱気と人の多さに圧倒される。

 4年ぶりの開催となるすみだ錦糸町河内音頭大盆踊りは、30年以上にわたって踊られてきた錦糸町の風物詩だ。大阪由来の河内音頭を独自に発展させた振り付けで、生演奏と生歌で踊るのを特徴とする。2年前にこの近くに引っ越してきたが、参加するのは初めてだ。

 入り口で200円を寄付して、猫たちが盆踊りを踊るイラストが描かれたうちわを貰う。イラストレーターのにゃんとこさんによるものだ。

 階段を降りて会場内へ。左右に並ぶ屋台は、焼き鳥、焼きそば、じゃがバター、チョコバナナなどなど、よりどりみどり。飲食エリアと仕切られて、真ん中に踊る人々の群れがある。入り口から離れた一番奥にステージがあり、出演者たちがかわるがわるに音頭を演奏する。ちょうどわたしが着いた時は中西レモンさんの出番だった。f:id:isatosui:20230910170400j:image

 レモンさんは昨年DOYASA! Recordsから出たアルバム『ひなのいえづと』を聴いてからすっかりファンになっている。ブルガリア民謡などを歌うすずめのティアーズのプロデュースで、日本のさまざまな民謡がサイケロック感のあるアレンジで歌われておりとても面白い。Tokyo FMの「トランス・ワールド・ミュージック・ウェイズ」への出演で初めて聴き、さらにその後KBS京都の「大友良英のJAMJAMラジオ」でF.M.N. Sound Factoryの石橋さんにも紹介されていたことで、注目すべきミュージシャンだと確信したのであった。

 なお、この日は盆踊り2日目で、1日目にはすずめのティアーズが「ポリフォニー江州音頭」を歌っていたとのこと。見たかったな〜。Bandcampから音源で聴いたがトリップ感のあるものすごいコーラスワークで、こんな音楽は聴いたことがないと思った。以下はにゃんとこさんがあげてくれている演奏動画より。

ポリフォニー江州音頭/すずめのティアーズ すみだ錦糸町河内音頭大盆踊り2023年9月6日 - YouTube

 盆踊りは現場ありきで一回性の強い音楽なので、こうして各出演者の演奏が記録化されているのはとってもありがたい。

 さて、いくつかお店を回ってお腹を満たしたら、踊りの輪の中へ……と思ったが、これが結構入るのに勇気がいる。食べながら見ていて、踊りが3つのグループに分かれていることに気づいたからだ。中心から輪が3層になっており、一番内側が反時計回りに進む手踊りの輪で、これが一番簡単に見える。その外側に同じく反時計回りに進む「流し」と呼ばれる輪があり、これは時々かなりのスピード感で飛び跳ねながら走るように踊っていて、ハードル高め。そして一番外側は時計回りに進む「錦糸町マンボ」で、こちらも飛び跳ねはするが回るスピード自体はかなりゆっくりだ。f:id:isatosui:20230911100001j:image

 このような3つの踊りで構成されつつ、時折別のオリジナルな踊りを踊っている人もいるものだから、わたしのようなビギナー盆踊らーは流れを掴むので精一杯だった。えいやっと一度飛び込んだが、動きを掴めず呆気なく数分で退散。しかし複数の踊りが入り乱れるポリフォニックな集合体は、外から眺めているだけでも非常に楽しい。踊らない人も楽しめるのがこの盆踊りの魅力と言える。

 踊るのは来年に持ち越し、ではせっかくならステージの近くに行ってみようと前の方へ移動。するとこちらにはステージを見る人々の集合があった。さながらフェス会場の様相である。トリで出てきたのは山中一平と河内オンドリャーズの面々。太鼓や三味線といったいわゆる音頭を演奏する楽器だけでなく、エレキギターやベース、ドラムも加わる編成だ。山中一平さんは河内音頭界の数少ないプロ音頭取りであるという。そのステージを間近で見ようと、前方にも人が集まってくる。盛り上がりは最高潮だ。こうした編成で演奏される音頭のリズムはどこかレゲエっぽく、世界共通のダンスミュージックのリズムのひとつはこれなのではないかなんて、ちょっとした妄想をしてみる。f:id:isatosui:20230911101523j:image

 後日、ファンシーのお店 にゃんとこで注文したTシャツが届いた。THIS BON-DANCE KILLS FASCISTS。盆踊りに来る人は、政治思想的には右の人も左の人もいると思う。わたしは左であることを自覚しているが、右の人がいてはならないとは思わない。むしろ違う考えの人が一緒にいて当然だと思っている。いちばん恐ろしいのは、ひとつの考えだけが世の中を支配することだ。それはとても貧しいことだと思う。それに、そもそも右とか左とかいうカテゴリーは大枠でしかなく、その枠の中であっても、それぞれの人の考えはみな少しずつ違っている。

 盆踊りだってそうだ。同じ動きをしているようで、実は全員少しずつ違う。そしてひとつの踊りに飽きたら、別の踊りに移行してもいい。外側から眺めるのもいい。錦糸町河内音頭大盆踊りのポリフォニックな群れは、それを許してくれるゆるさがある。盆踊りという場は、そのゆるさで人それぞれの違いを肯定しているのだ。f:id:isatosui:20230911112517j:image