【4冊目】「らんまん」の2次創作としての自伝〜牧野富太郎『草木とともに——牧野富太郎自伝』(角川ソフィア文庫、2022年)

 「らんまん」、おもしろいですよね。植物が誰よりも好きで、誰がなんと言おうと植物学の道をまっしぐらに進み、反対していた人も唸らせてしまう、万太郎の磁力にすっかりはまっています。万太郎、わたしの人生のロールモデルなんじゃないかと思えるほどです。もちろん彼だけでなく、寿恵子さんや竹雄、波多野、田邉教授などの周辺人物全員も大変魅力的で、それぞれにきちんとスポットがあたるのもとても良く、「良い脚本だな〜!良い!」となっています(とにかく良い)。

 というわけで、牧野富太郎先生本人の自伝も読んでみました。表紙には蔓性の植物?を首から下げて満面の笑みでこちらを向く先生のご尊顔が。この顔、らんまんそのものですね。

 この本は2022年に文庫化されたエッセイ集で、朝ドラに向けて出版されたものと思われます。牧野先生の人生に沿っておおよそ時系列順にエッセイが並んでおり、解説のいとうせいこうさんも書いていますが、さしずめ「牧野ベストヒット集」といったところでしょう。牧野は1862年の生まれで1957年に94歳で亡くなりましたが(長生き!!)、こうして今の時代でも読みやすい形で出版されるのはありがたい限りですね。

 本書を読むと、牧野先生がいかに博覧強記の学者であったかがうかがえます。植物に関する知見は言わずもがな、和歌や漢詩まで創作してエッセイの中で詠んでいるのだから驚きです。

 一方で、死ぬ前年にストリップショーを見に行って「若い女はええものである」なんて書いてしまうどうしようもなさも魅力です。このときの写真が週刊誌に載って学士会からこっぴどく怒られたそうですが、牧野はこれを長生きの秘訣と言ってみせる。なにせ13人子どもがいた人ですからね。どうしようもないが憎めない、人間・牧野富太郎の魅力を語る上で外せないエピソードでしょう(魅力としては外してもよい)。

 ドラマおなじみのキャラクターたちの元になった人物やそのエピソードも出てきます。たとえば田邊教授のモデルになった矢田部良吉の破門草事件。トガクシソウ命名をめぐる一騒動ですね。それから大学の研究室で語学の天才だった池野博士。これは波多野のことですが、彼にはドラマ中では描かれていないこんなエピソードが。

同君はすこぶる菓子好きで、十や二十をぱくつくことなどは何のぞうさもなかった。また食べる速力がとても早くて、一緒に相対して牛鍋をつつき合うとき、こちらが油断していると、みな同君にしてやられてしまう危険率が多かった。[52頁]

 ドラマの裏話みたいで楽しい。ああ、このふたりにはこんな関係も……と2次創作を読んでいる気分になります。逆なのですが。これは伝記物ならではの楽しみ方ですね。ドラマを見てから自伝エッセイを読むことでむしろ元になった現実のほうを非常にオタク的に読めるわけです。2次創作的転回とでもかっこよく呼んでおきましょう。ああ、尊い(オタク)。

 ほかにも牧野先生は毛虫や芋虫の類が非常に苦手だったという話や(植物学者として致命的では)、本書後半には「牧野一家言」として、植物を愛するゆえに平和を愛する牧野先生の含蓄深い言葉の数々も収録されています。ドラマのファンなら間違いなく楽しめる一冊だと思います。

 唐突ですがわたしもずっとサボテンを育てたいと思ってたんですよね。サボテンは可愛いので。部屋を片付けて今度買ってこよう。

【書評】ジャパノイズはぐるぐる廻る〜デヴィッド・ノヴァック『ジャパノイズーーサーキュレーション終端の音楽』(若尾裕訳、水声社、2019 年)

大学の課題で書いてどこにも出ることなく眠っていたWordファイルから。一部改稿したものの、エッセイ風味がなく、真面目すぎる……(本は抜群に面白いです。必読です)。以下より本文。

 少し迂遠な話から。ポストモダン文化人類学者、ジェームズ・クリフォードジョージ・マーカスによる『文化を書く』春日直樹他訳、紀伊國屋書店、1986年)は、人類学のみならず、社会科学や文化研究に決定的な影響を与えたとされている。フィールドワークを通じて他者の生活を記述するという方法(エスノグラフィー)により成り立ってきた文化人類学に対する根本的な批判の書だったからだ。

 以後、人類学では、誰が、どのようにエスノグラフィーを記述するかが問題になった。書き手は特権的な立場から引きずりおろされ、自己再帰的に書く(当事者研究はその派生型だろう)などといった新たな方法論への展開を見せた。そうした議論は今では当時ほど盛んではなくなったように思われるが、現在も参照されるべき視点であることに変わりはない。

 『文化を書く』の少し前には、エドワード・W・サイードによるオリエンタリズム(今沢紀子訳、平凡社、1993年。原著は1978年)が出版されている。サイードは「西洋」と「東洋」という対立が想像上の区分に過ぎないことを指摘した。「オリエント」という概念はオリエンタリストによる表象の産物であり、その表象から自らを疎外することによって、「西洋」もまた成立したのだとサイードは論じた。本書もまた、西洋近代のディシプリンの功罪を明るみに出した苛烈な批判の書だった。

 さて、ここまでふたつの文献を――それも極めて有名なものを改めて――取り上げたのには理由がある。ここに評する本が、このふたつの文献が明らかにした問題意識の延長線上に位置していると思われるからだ。
 ジャパノイズ。この言葉を見聞きするだけで、アンダーグラウンドの暗黒世界に誘われる気分になるのはわたしだけではないはずだ(実際内容もそのくらい刺激的だ)。本書はジャパノイズと呼ばれる音楽についてのフィールドワークを中心とした研究書である。

 著者はカルフォルニア大学サンタ・バーバラ校の民族音楽プログラムの准教授、デヴィッド・ノヴァック。博士論文の書籍化である本書は、1997年から2008年までの日本と北米でのフィールドワークがもとになっている。
 ジャパノイズのサウンドをごく簡単に形容すれば、それは聴く者の全身を粉々に砕くかのごとく爆発的な音量で演奏される、電子的、あるいは金属的な騒音の乱舞、とひとまず言えるかと思う。もしあなたがすでにその音に狂喜乱舞したことがあるならば、本書は必読だ。ジャパノイズが日本から海外へと直線的に波及したのではなく、トランスナショナルならせん状のループの中で形成された音楽シーンだということを知って、あなたはそのループからますます抜け出せなくなるだろう。逆にこれまでジャパノイズやノイズミュージックに無縁であったならば、そのハーシュ(厳しい、不快な、耳障りな、という意味のこの語は、ノイズ界隈ではそのサウンドが優れていることを形容して用いられる)な音世界に触れ、気づけば爆音のノイズで耳を塞いでいること掛け値なしだ。
 著者の場合、ジャパノイズと出会ったのは、大学の夏季集中コースで詰め込んだ日本語だけを頼りに1989年から1年間京都に住んだ後、アメリカに帰ってからのことだった。1980年代から、主に関西圏で制作されたアンダーグラウンドなインディペンデント・ミュージックのカセットテープがアメリカに多く流入していた。そこでジャパノイズという名で受容され始めた音楽があることを知り、驚いたという。アメリカでの成功を狙って輸出されてもいたJ-popの主流からほど遠い音楽だったからだ。

 北米でのリスナーを獲得したジャパノイズは、日本に逆輸入された。著者いわく、非常階段、メルツバウマゾンナ(本書の表紙は彼の演奏中の写真だ)といった日本のノイズミュージックシーンを代表する人々は、アメリカでの受容なしには日本の聴衆に知られることがなかった。つまり、ジャパノイズとは、北米と日本の相互フィードバックのループのなかで成立した音楽だと著者は主張する。
 こうした音楽の成立過程に立脚し、本書の著述スタイルもまた、らせん状に展開しているようだ。ジャパノイズはどこで生まれたのか、あるいはどのような影響関係のもとに作られたのかといった起源を見定め、各章を通じて少しずつ明らかにしながら一直線に追究するスタイルではない。著者の記述は、ノイズの演奏や聴取の美学はいかなるものか、日本と北米の各都市においてこのジャンルはどのように広まったのか、あるいは戦後日本の文化的な時代背景とノイズシーンの関連、さらにはカセットテープというテクノロジーがこのジャンルに果たす役割まで、多岐にわたる。日本と北米のあいだ、そして複数の問いのあいだをぐるぐると高速で移動するようにして著者は書く。その移動のなかからジャパノイズという現象の姿が浮かび上がってくる。
 副題にもあるサーキュレーションが本書の理論的なキーワードだ。実験的な音楽であるノイズは、固定的な性格づけを逃れて常に変転するものであると著者はいう。そこで、ジャパノイズを日本発祥のものと固定して捉えるのではなく、複数の文化のあいだに起きる現象であり、さらにそれ自体が文化を形作っていく動態として捉えることが重要だ。サーキュレーションは、高速でトランスナショナルに移動しながら変容するジャパノイズという現象を捉えるためのキーワードなのだ。
 ノイズが動的な現象である以上、著者のエスノグラフィーの書きぶりも、ノイズをはっきりと定義したり、あるローカルな地域内の出来事として還元したりすることはない。著者はいわばノイズと「共犯関係」になって、あえて曖昧さが残る断片的な書き方を心掛けながら、そのカオスな音楽シーンの成立と受容を論じる。訳者の若尾裕が述べるとおり、その記述はかつての「文化人類学者のエスノグラフィーに比べるとずっとアクチュアル」なものになっていると言える。

 そしてまた、このように書くことによって、ノイズは安定して継続的なディシプリンの対極に位置するものであることを著者は強調する。ノイズは分類不可能であり、何らかのカテゴリーにまとめられることを拒む。著者はオリエンタリストが東洋を完膚なきまで解き明かしてくれたようには説明してくれない。なにせ、本書のエピローグで著者自身「ノイズとは何かがわからない」と書いているのだ。ノイズを記述するのに、これ以上の誠実さがあるだろうか。著者はノイズを体系化してしまうことを徹底的に避けている。その姿勢に、クリフォードとマーカス、そしてサイード後のエスノグラフィーの方法をみてとることは的外れではないだろう。

 なお、北米でのジャパノイズの受容については、オリエンタルな眼差しがあったことも紹介されている。ジャパノイズというカテゴリーをつくりあげるため、海外のコンピレーション盤のアートワークに着物がはだけた人形や水着姿で包帯を巻いた女性といった、明らかに性的なイメージが用いられたことがあったのだ。インキャパタシタンツの美川俊治はこうした受容を批判していたという。そして、逸脱した性のイメージとの関連において受容されるのを拒んだ日本のノイジシャンは、ゆがんだラベルを取り払うため、自身でノイズを定義しなければならなくなったこともあった。
 また著者自身のジャパノイズへの眼差しもオリエンタルな眼差しに支えられていると見る向きもなくはない。訳者の若尾も述べているが、敗戦後日本のアイデンティティ危機やバブル崩壊後の資本主義の暗黒面の象徴としてAKIRA新世紀エヴァンゲリオンといったディストピア世界を描くSF作品が生まれ、それがジャパノイズと通底しているとする推論は、刺激的ではあるが、それは日本文化の理解としては大味……とまでは言わなくとも、少々強引であるように思う。そう思うのは、日本社会の変動とサブカルチャーとの関連を論じた部分だけがフィールドワークをもとにしておらず、日本文化を論じた先行研究をなぞるにとどまっているからかもしれない。著者の目と耳(特に耳)による裏付けがないのだ。もちろん、その推論が海外の研究者から見た日本文化と日本的なアイデンティティの表象を言い当てる議論として、貴重なものであるともいえる。本書の邦訳刊行によって議論が活発化し、トランスナショナルな視点によって日本や北米の文化を動態的に捉えられるようになることこそ、著者の主眼とするところだろう。

 さて、わたしは主にポストコロニアリズムの観点から読んだが、複数の場所と問いのあいだを飛び回る本書は、当然ここで取り上げた以上に雑多な思想の響きで満ちている。本書もまた、読む者にフィードバックを求めてやまないノイズなのだ(上手いこと言ってみた)。

フェスティバルFUKUSHIMA! 2023ルポ

 2023年8月12日土曜日、東京は晴れ。西日本には台風7号が接近している。東京駅から13時ちょうど発のやまびこ139号で福島駅へ向かう。新幹線に乗ってすぐ、駅弁屋で買った押し寿司を開ける。酢の匂い。隣の席の大学生っぽいふたり組が嫌な顔をしないか心配だ。胃に入れてしまえば匂いはしないだろうと、貪るように食べる。5分で完食。小さすぎた。まだ空腹だがしかたない。スマホを開いてSNSやブログを書いて空腹と移動時間をやりすごす。

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 14時30分、福島駅に到着。天気が心配だったが無事くもり。東京より全然涼しい。福島を訪れるのは約2年ぶりだ。前に来たのは大学院生だったとき。修士論文に「フェスティバルFUKUSHIMA! 2021」のことを書こうと思って行ったのだった。修士論文に載せた大友良英さんへのインタビューはこちらから。

WEKO - 立教大学学術リポジトリ

 なので、今回は修論の続編(?)。「あとがきのあとがき」のような気分で、書いています。

 福島駅を出ると、さっそく「ええじゃないか音頭」が聴こえてきた。まだスタート時間ではないので、きっとリハの音だろう。「おっ、やってるやってる!」という、まさに祭りに囃し立てられた気分になってくる。弾む足取りで駅前通りへ。やぐらとステージ、そして封鎖された道路一面に敷き詰められた色とりどりの風呂敷が見えてくる。このフェスティバルの代名詞ともいえる「大風呂敷」だ。複数の布をつなぎ合わせて作られたその足元は、もともとは放射能対策として講じられたものだった。2011年8月15日、四季の里およびあづま球場で行われた第1回フェスティバルFUKUSHIMA!で、原発事故がもたらした放射能汚染から来客と出演者を守るために、芝生の上に敷き詰められたのがこの布だった。

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 さて、前回は論文を書くためのフィールドワークということで研究モードで参加したのだが、社会人となった今、紙とペンからは自由の身だ。そこで今日は演奏者として参加してしまおうと思い、ウクレレを持ってやってきた。とはいえ今日は福島に通える人を中心に大友さんが呼びかけて集めたコレクティブFUKUSHIMA!の初演でもある。盆踊りの演奏もそのメンバーでやる、ということになっていた。一応SNS上では飛び入り参加OKの旨は書いてあったものの、そのへんの棲み分けは一体……なんて心配は無用。大友さんに会った途端に、「適当に入ってよ!」と言っていただいたので、まあ音も小さい楽器だ(本当はでかい音の楽器に憧れているが持っていない)、演奏者たちの近くで楽器を取り出す。

 さあはじまった。まずは集団即興演奏から。大友さんの指揮(ハンドサイン)で演奏者が音を出し、音楽ができあがっていく。f:id:isatosui:20230813012341p:image

 一区切りついたところで、来場者から指揮者が募られる。まずは子ども。ハンドサインよりも自由な振る舞いに、演奏者も戸惑いながら音を出す。ボテ、ボテボテ、ドコ、ビーン、バン!ドン、ジャカジャカ!

 続いて大人の指揮者。大友さんが英語で声をかけて出てきたのはデヴィッド・ノヴァックさん。彼は音楽学者で、わたしも院生時代に愛読した『ジャパノイズ——サーキュレーション終端の音楽』(若尾裕訳、水声社、2019年)の著者だ。音楽の批評をすることが同時に社会批評にもなりうるということをわたしはこの本から学びました。必読です。そのノヴァックさんの指揮はというと、表情と全身(特に表情)で演奏者に指示を与えていて、しかもなぜかサンバ調のリズムになっており、とても面白かった。

 ほかにも4、5人ほどが指揮をしたと思う。最後にもう一度大友さんの指揮。やっぱり場数をものすごく踏んでいるので、大友さんの指揮は上手いんですよね。誰に(どの楽器に)どう指示を与えたらいいかをその場で考えながら、リズムやダイナミクスを上手く作って、最後はめちゃくちゃに(本当にめちゃくちゃな感じになる)盛り上げて終わる。

 とはいえ、大友さんの指揮が絶対的に「良い」というわけではなく、それはこの道のプロなので上手いけれど、指揮する人によってそれぞれ全然別の音楽がつくられるのがこの方法の面白いところだと思う。音楽を巧拙や良し悪しだけで捉えるなんて、まったく偏狭な価値観なんだろう、という気がしてくる。

 即興が終わって、演奏者たちはぞろぞろと駅から反対方向に200メートルほど歩いた先の「まちなか広場」へ移動。ここではビールフェスが開催されていて、そのお客さんたちを前に少しだけ演奏する。f:id:isatosui:20230813012650j:image

 ここからさっきまでいたやぐらのあるステージまでパレードだ。あまちゃん音頭のAメロをエンドレスでループしながら、ビールフェスを抜け、信号を渡り、ふたたびステージへ。

 ここで一旦コレクティブは終わり、モミwithまさひこの演奏に。フルアコギターの甘い音色と爽やかな心地の良いボーカル、そして大友さんのエレキギターとコレクティブのメンバーからパーカッションやホーンも参加。打ち水をした後に感じる涼しい風のような演奏。まさひこさんのギター、良い音してるなあ。ハーモニクスが水が撥ねる音みたいに綺麗だった。コレクティブのメンバーも道ゆく人も、風呂敷に座ってゆるやかに聴き入る。以下セットリスト。「雨にぬれても」、「サマーサンバ」、「クロース・トゥ・ユー」、「オン・ザ・サニーサイド・オブ・ザ・ストリート」。f:id:isatosui:20230813012557j:image

 ここで小休憩。最後までいるつもりなので今のうちに腹ごしらえ。駅前通りを一本裏に入ったところにおいしそうなビストロを見つけた。パリの大衆食堂がコンセプトっぽいお店。これがめちゃめちゃうま〜い。開店直後でガラガラだったけどどうやらコースで予約のお客さんがかなりいる気配。そして勧められるがままにワインを2杯。ああ、パリに行きたい(韻踏んでます)。ちょっと贅沢しすぎたけど旅行(扱い)なのでよしとします。写真はイワシとオリーブオイルのパスタ。f:id:isatosui:20230813011451j:image

 さて、戻るとすでに盆踊りが始まっていた。再びウクレレを取り出して「ええじゃないか音頭」の途中から参加。すっかり酔っ払ってるので「ええじゃないか〜!」と上機嫌で歌いながらやぐらのまわりを回って演奏。続けてあまちゃん音頭、地元に帰ろう音頭、池袋西口音頭、新生相馬盆歌、フジオ音頭も(順不同。酔っ払ってるので覚えてません)。人がどんどん増えて演奏もどんどんヒートアップ。

 途中、フジオ音頭の前だったかな、「遠藤ミチロウ坂本龍一が絶対その辺のビルから見てるよ」、と大友さん。メンバー紹介に続いて2人の名前を呼んで、みんなで天に向かって拍手する。フジオ音頭は「レレレのレ〜!」のコールアンドレスポンスで始まり、途中の「ストップ レディオアクティビティ」もかけ声のひとつ。大友さんがインタビューで盆踊りはゆるくて良いって言っていたのが、ようやくわかった。強い政治批判の言葉をたとえ使ったとしても、それが暴力的な「力」になっていかないってことなんだと思う。むしろその逆で、音頭は脱力。あがった拳も開いちゃう。脱力しながら盛り上がるなんて、まったく不思議な音楽だ。それに坂本さんとミチロウさんの思想というか魂(普段は魂なんて言葉絶対使わないけど)が、このゆるい音頭のこだまの中にあるような気がする。ふたりはほとんど接点がなかったと思うけれど、見ていた未来は近かったと思う。ああ、どこからかミチロウさんの歌と坂本さんのピアノが聴こえてきたようだ。

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 音も人もごちゃまぜになりながら、やぐらのまわりをぐるぐると回り、手を取り合って笑い合う。音頭ってこんなに楽しいんだなあ。実は2021年のフェスティバルFUKUSHIMA!は久々の開催で雨だったこともあり、こんな熱気はなかったのだ。これを見ていたら論文も少し変わっていたかも……なんて思うけど、これが本当の後の祭り(?)。こんなに音楽を楽しいと思えたのは久しぶりだった。

 最後はええじゃないか音頭の間奏部分を何回か回して締めくくり。来年はもっと音のでかい楽器で参加したい。

【書評】カメラを切り替える——三木那由他『言葉の展望台』(講談社、2022年)

 ちょっとした言葉が気になることがある。たとえば昨日は同居人にこんなことを言われた。

「いさとちゃん、ティッシュがないよ」

 テーブルの上にあるボックスティッシュが使い切られたまま放置されていたのだ。思えば最後に使ったのはわたしで、使い切ったことをすっかり忘れていた。「ああそうだった」と新しいボックスティッシュを取り出して交換し、使い終わったものは畳んで資源用のゴミ箱に入れた。

 さて、このとき同居人は「ティッシュがない」という素朴な事実をわたしに告げたわけだが、それを聞いたわたしはボックスティッシュの交換という行動に及んだ。同居人の言葉がわたしを動かしたといえる。しかし、同居人の言葉を言葉どおりに解釈すれば、それはティッシュがないという事実の伝達であって、わたしにティッシュを交換してほしいと伝えたわけではない。わたしとしても、「そうだね」とか「ほんとだ」とか「たしかにないね」などと言うだけで、交換しなくてもよかったはずだ。しかしながらわたしはティッシュを交換してしまった。これはいったいどういうことか。疑問に思ったので交換し終わったあと、さっそく同居人に聞いてみた。

「さっきの『ティッシュがないよ』って『ティッシュを交換してね』って意味だよね?」

 ちょっと意地の悪い質問だと思いつつそう聞くと、同居人は「そういうことになるね」と答えた。「そういうことになるね」!! なんとも無責任な発言だ。ということは、「ティッシュがないよ」と言ったとき、同居人はわたしに行動させることを意図せずして発言し、わたしに質問を返されてはじめて、自分の意図を自覚したということになる。でも、本当に意図せずして?

 同居人が本当に意図せずそう発言したのかをたしかめる術はわたしにはない。他人の心のうちを読むことはできないからだ。もしかしたら、同居人は最初からわたしに行動させるつもりだったのかもしれない。しかし「交換してほしい」と直截にお願いするのは憚られたので、「ない」という事実だけを示すことで暗にわたしを行動させようとしたのではないか。そしてそれがバレてしまったので、次のように弁明した。動かす意図はなかったけど、いま思えばそういう意図があったようにもとれる、と。すると、「そういうことになるね」は「ティッシュがないよ」という発言がもたらした結果から自分の責任をできるだけ軽くするための自己弁護になるのではないか。「換えてほしいって頼んだわけじゃなかったんだけどね」、というような。

 意地の悪い質問をしてその手のうちを暴いてしまおうと思ったのに、実は相手のほうが一枚も二枚も上手だったのである。まったく、一杯食わされたのはわたしのほうだった。もちろん、この推測が正しければ、の話ではあるが(経験則からいってたぶん正しい)。

 枕が長くなってしまったが、三木那由他さんの『言葉の展望台』は、こうした日常的なコミュニケーションについてずっと精緻かつ大胆に、そして軽やかに論じた本だ。

 収められた12篇の文章は、著者も書くとおり「エッセイと評論のあいだくらい」(150頁)の温度で、わたしはこの手の文章が大好きだ。著者が見聞きして面白かった会話や「ヒロアカ」、「金田一少年」、「スカイリム」といった好きな漫画・ゲームなどの話をしていたと思うと、「『理論的に考える哲学者』モード」(108頁)の顔がするするっと現れてくる。「楽しむ読者モード」から「哲学者モード」に移る、このメリハリが楽しい。

 英語圏言語哲学の理論を軽やかに紹介しつつ日常会話や作品の台詞を鮮やかに分析する一方で、そうした理論が土台にする理性的な人間像だけでは捉えきれないコミュニケーションがあると著者は述べる。「哲学者だって、たまにはときめきに突き動かされて議論したっていいだろう」(113頁)と「吠え」てみせるその書きぶりは、とってもチャーミングだ。

 とはいえ楽しいだけではない。トランスジェンダー当事者である著者が、哲学者としてではなく「私」として、差別について語る言葉はとても苦しい。政治家の差別発言に傷ついた「私のこの痛み」(76頁、太字は原著傍点)を、著者は次のように語る。

何がこんなにも苦しいのだろうか。言葉そのものではないし、それを議員が言ったという事実でもない。(中略)そもそも「道徳的に間違っているのでは」、「生物としておかしいのでは」、「所詮はただの常軌を逸した男にすぎないのではないか」といった言葉は、子どものころからつい最近に至るまで、私自身が自分に投げかけてきた言葉なのだ。(77頁、太字強調引用者)

 

きちんと反論するためには、相手の主張をいったんは受け止め、吟味しなければならない。それは学術的には正しい作法なのだが、こと自分自身に向けられる差別発言にそうした方針を採用すると、「いったんは受け止め」に留まらず、かつて自分自身の存在を否定しようとしていたもうひとりの私が、心の奥のほうで息を吹き返すらしい。私が存在してはならないと思っているもうひとりの私。(中略)「私は生きているべきではない」と考える私自身は、たとえシミュレーション的にほんのいっとき蘇っただけだとしても、手に負えない。生きることに絶望し、「将来の夢」を訊かれてもそもそも大人になった自分というものが想像さえできなかった子どものころの私が蘇り、私を子どものように泣かせてしまう。(80頁、太字強調引用者)

 言葉は多義的で、コミュニケーションには常に誤解の余地がある。それは遊びの余地でもあるし、暴力の余地でもある。「他者の痛みがわかる」ということがもしあるならば、それは聞き手が意味を占有してしまっているからだ。聞き手によって、語り手の気持ちは歪んで、しかしそれが正しいものとして、伝わったことにされるのである。そのとき、たとえばミソジニーといった社会的・文化的コンテクストは、コミュニケーションのポリティクスを支配する。女性の痛みは、シス男性に都合よく解釈されるのだ(無論、この女性には、トランス女性も含まれる)。それはコミュニケーション的暴力の典型のひとつであるという(18-19頁)。

 このように、著者は言語とコミュニケーションの哲学者として差別発言を冷静に分析する。それは込み入った議論にはなるかもしれないが、理解可能なかたちで示される語りになる。しかしそれでは「私のこの痛み」を表すことができない。私の苦しみについての語りは、「『感情的』で、理解しがたいもの」(同上)だからだ。

 つまり、本書にはふたつのレンズがあるのだ。哲学というレンズは、わたしたちの言語とコミュニケーションのポリティクスを冷静に暴き出す。しかしそれは「私のこの痛み」にふれるものではない。だからもうひとつの「私」というレンズで、哲学というレンズの歪みが映し返されるのである。わたしたちはふたつのレンズを切り替えて、見えるものの違いから新たな発見をしたり、またあるときにはその違いに目眩する。FPS視点とTPS視点を切り替えれば見える世界が変わるのと同じことだ。現実という、無限に分岐し、正規ルートのないゲームを、わたしたちは複数のカメラを操作しながらプレイし続けているのだと考えると、この広大なオープンワールドを生きるためには、わたしには旅の仲間との出会いと別れが必要だと、そう思えてくる。

【書評】「トランス」に誘われ、「ノイズ」を聴きにいく——周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』(集英社新書、2023年)

 「男性と女性で脳の構造が違うんですよ」、「男の人って中華好きですよね」、「女性にお茶を淹れてもらったほうが男性は嬉しいに決まってる」「〇〇くんは彼女いるのかな?」「インスタとかああいう細かいのは女性がやるものだと思うんだよね」etc……。

 これらはわたしが職場で実際に聞いた言葉だ。かといってわたしの職場だけに特別なものではないと思う。どこにでもある、男女二元論と異性愛主義を前提とした、「普通」のコミュニケーション。こうした「普通」に対して、どう言ったらわたしの違和感は伝わるのだろう。「男性とか女性はスキルや嗜好と関係ないですよ」とか「みんながみんなあなたと同じじゃないんですよ」なんて言ってみても、はたしてどう伝わっているのやら……。最近そんなことを考えていたが、待望の本が出た。周司あきらと高井ゆと里による『トランスジェンダー入門』(集英社新書、2023年)だ。

 先に書いておくと、わたしはシスジェンダーヘテロセクシャルとして生きてきたし、これからもそうなんじゃないかと思っている。だからこそ本書を読んでよかった。わたしが職場で違和感を感じた言葉は、シスヘテロ中心の社会だから発されるものだと思う。そしてわたしもその構造に加担している。でもだからといって、その構造を突き崩すことにわたしが参加できないわけではない。むしろシスヘテロであるからこそ、自分の特権性を自覚的に批判しなければならない。そういう責任があるのだということを書いていく。

 本書は本邦初のトランスジェンダーの入門書だ。あとがきによれば、本書執筆のきっかけは高井の訳したショーン・フェイの『トランスジェンダー問題』が「日本の読者たちにとって難しすぎるのではないかという懸念があった」(213頁)からだ。わたしも『トランスジェンダー問題』を手に取ってみたが、たしかに何の前提もなしに読むには少々難しい。そこで、トランス当事者はもちろん、そうではない人にも向けて、トランスジェンダーについての基本的な知識と日本に置かれているトランスの状況を知ってもらうために、本書は書かれたという(214頁)。

 第1章「トランスジェンダーとは?」に書かれているとおり、トランスジェンダーをめぐっては、不正確な前提が共有されがちだ。「心の性と身体の性が一致しない人」、あるいは「性同一性障害」といった説明は、現在は適切なものではない。「心の性」はジェンダーアイデンティティが社会を生きていく過程で構築されるものだという観点が欠落しているし、「身体の性」は外性器以外も含む身体の性的特徴が変更不可能なものであるかのようなイメージを与える(30-34頁)。また「性同一性障害」は差別的なニュアンスを含むため現在の医学界では使われておらず、「性別違和」や「性別不合」といった言葉に置き換わっている(125-126頁)。

 そこで、本書ではまず、トランスジェンダーの一般的な定義が述べられている。「出生時に割り当てられた性別と、ジェンダーアイデンティティが異なる人たち」(14頁)。つまり、出征証明書に記載される性別と、社会の中を生きる過程で自身が認識する性別が一致しない人、これがひとまずの定義だ。

 ひとまず、であるのは、この定義がトランスの現実にそぐわない場合もあるからだ。ジェンダーアイデンティティが確立していなくても、出生時の性別に違和を覚え、性別移行の過程で移行先の性別に適応する人もいる。あるいは、さまざまな境遇にある人々が共通してトランス差別に対抗するための政治的主体を表す言葉として(アンブレラタームとして)、「トランスジェンダー」が用いられることもある。この場合、そこには異性装の人も含まれる。また、先の定義だとノンバイナリーもトランスジェンダーに含まれるが、ノンバイナリーの人の中にはトランスと名乗ることを避ける人もいる。そして当然のことながら、トランスジェンダーという概念が流通する前から、「トランス的な」人たちが存在していたことも忘れてはならない(21-28頁)。

 繰り返しになるが、誤った認識やかつての「常識」が広まるのを防いだり、差別に抵抗したりするため、定義を示すことは重要だ。しかしそれ以上に重要なのは、定義を人に当てはめるのではなく、それぞれの人々が生きる現実に即して言葉を使うことではないか。そしてまた、他者の生を簡単にわかった気にならないことではないだろうか。本書を読んで最も強く感じたのはそのことだ。

シスの人でも分かるような、読みやすく、整頓された文章を書けば、みんな読んでくれると信じています。だから、私たちはこの本を書きました。しかし同時に、私たちは知っています。こうして分かりやすく平易にまとめた文章ではない、トランスたちの雑多でカラフルで、苦痛に満ちたリアルな声は、やっぱり無視されるのだと、知っています。あなたのもとに届いている「トランスの声」には、すでに偏りがあります。(114頁)

 著者はトランスジェンダーの置かれている状況を伝えるため条理を尽くして語る。読者である「あなた」に何度も語りかける。「ぜひ、一人ひとりの話を聞いてください。一人ひとりの状況は違います。(中略)一人ひとりに耳を傾け、現実を見つめ、何ができるか、よく考えてください」(143頁)。と同時に、そうした説明だけではとても補いきれない現実があることも述べる。目次に並ぶ「学校教育」や「医療と健康」、「法律」といった項目は、説明上分けられているが、実際は折り重なってトランスジェンダーのリアルを形作っている。本書をよく読めばそのことがわかる。しかしわかりやすく整除することは、複雑な現実を複雑なまま捉えることを時に難しくしてしまう。「わかる」ことは無数にある雑多な声を無視することだ。わたしたち読者は、すでに切実に著者から呼びかけられた。であれば、読者にはその呼びかけに応じる責任がある。本書から溢れるカラフルで苦痛に満ちた「ノイズ」を聴き取るという責任だ。

 だからわたしたちはすすんで自らを「わからない」という不安定な場へと置かなければならない。それは「わかろうとしない」ことではない。他者を、そして自分自身を、生まれもった身体や「らしさ」の檻に縛りつけないということだ。変化する動的な存在として一人ひとりの生を捉え、混沌とした現実に向き合うということだ。

 あえてこう言ってみたい。本書は読者を「トランス」へと誘う。いまここの世界から別の世界への移行。著者が本書に託すトランスジェンダーに希望ある未来への跳躍。最良の入門書はその本の向こう側に広がる世界を読者に示してくれるものだ。それは著者が読者を信じているからにほかならない。信じているから呼びかけ、わたしたちをまだ見ぬ世界へと誘うのだ。本書はその何よりの証左である。わたしたちはその誘いに応じなければならない。

 さて、冒頭の言葉を言った人たちは、本書をどう読むだろう。自分には関係ないと思うだろうか。そんなはずはない。トランスジェンダーを「問題」にするのはいつもきまってシスジェンダーだということが、本書を読めばわかるはずだから。