【書評】カメラを切り替える——三木那由他『言葉の展望台』(講談社、2022年)

 ちょっとした言葉が気になることがある。たとえば昨日は同居人にこんなことを言われた。

「いさとちゃん、ティッシュがないよ」

 テーブルの上にあるボックスティッシュが使い切られたまま放置されていたのだ。思えば最後に使ったのはわたしで、使い切ったことをすっかり忘れていた。「ああそうだった」と新しいボックスティッシュを取り出して交換し、使い終わったものは畳んで資源用のゴミ箱に入れた。

 さて、このとき同居人は「ティッシュがない」という素朴な事実をわたしに告げたわけだが、それを聞いたわたしはボックスティッシュの交換という行動に及んだ。同居人の言葉がわたしを動かしたといえる。しかし、同居人の言葉を言葉どおりに解釈すれば、それはティッシュがないという事実の伝達であって、わたしにティッシュを交換してほしいと伝えたわけではない。わたしとしても、「そうだね」とか「ほんとだ」とか「たしかにないね」などと言うだけで、交換しなくてもよかったはずだ。しかしながらわたしはティッシュを交換してしまった。これはいったいどういうことか。疑問に思ったので交換し終わったあと、さっそく同居人に聞いてみた。

「さっきの『ティッシュがないよ』って『ティッシュを交換してね』って意味だよね?」

 ちょっと意地の悪い質問だと思いつつそう聞くと、同居人は「そういうことになるね」と答えた。「そういうことになるね」!! なんとも無責任な発言だ。ということは、「ティッシュがないよ」と言ったとき、同居人はわたしに行動させることを意図せずして発言し、わたしに質問を返されてはじめて、自分の意図を自覚したということになる。でも、本当に意図せずして?

 同居人が本当に意図せずそう発言したのかをたしかめる術はわたしにはない。他人の心のうちを読むことはできないからだ。もしかしたら、同居人は最初からわたしに行動させるつもりだったのかもしれない。しかし「交換してほしい」と直截にお願いするのは憚られたので、「ない」という事実だけを示すことで暗にわたしを行動させようとしたのではないか。そしてそれがバレてしまったので、次のように弁明した。動かす意図はなかったけど、いま思えばそういう意図があったようにもとれる、と。すると、「そういうことになるね」は「ティッシュがないよ」という発言がもたらした結果から自分の責任をできるだけ軽くするための自己弁護になるのではないか。「換えてほしいって頼んだわけじゃなかったんだけどね」、というような。

 意地の悪い質問をしてその手のうちを暴いてしまおうと思ったのに、実は相手のほうが一枚も二枚も上手だったのである。まったく、一杯食わされたのはわたしのほうだった。もちろん、この推測が正しければ、の話ではあるが(経験則からいってたぶん正しい)。

 枕が長くなってしまったが、三木那由他さんの『言葉の展望台』は、こうした日常的なコミュニケーションについてずっと精緻かつ大胆に、そして軽やかに論じた本だ。

 収められた12篇の文章は、著者も書くとおり「エッセイと評論のあいだくらい」(150頁)の温度で、わたしはこの手の文章が大好きだ。著者が見聞きして面白かった会話や「ヒロアカ」、「金田一少年」、「スカイリム」といった好きな漫画・ゲームなどの話をしていたと思うと、「『理論的に考える哲学者』モード」(108頁)の顔がするするっと現れてくる。「楽しむ読者モード」から「哲学者モード」に移る、このメリハリが楽しい。

 英語圏言語哲学の理論を軽やかに紹介しつつ日常会話や作品の台詞を鮮やかに分析する一方で、そうした理論が土台にする理性的な人間像だけでは捉えきれないコミュニケーションがあると著者は述べる。「哲学者だって、たまにはときめきに突き動かされて議論したっていいだろう」(113頁)と「吠え」てみせるその書きぶりは、とってもチャーミングだ。

 とはいえ楽しいだけではない。トランスジェンダー当事者である著者が、哲学者としてではなく「私」として、差別について語る言葉はとても苦しい。政治家の差別発言に傷ついた「私のこの痛み」(76頁、太字は原著傍点)を、著者は次のように語る。

何がこんなにも苦しいのだろうか。言葉そのものではないし、それを議員が言ったという事実でもない。(中略)そもそも「道徳的に間違っているのでは」、「生物としておかしいのでは」、「所詮はただの常軌を逸した男にすぎないのではないか」といった言葉は、子どものころからつい最近に至るまで、私自身が自分に投げかけてきた言葉なのだ。(77頁、太字強調引用者)

 

きちんと反論するためには、相手の主張をいったんは受け止め、吟味しなければならない。それは学術的には正しい作法なのだが、こと自分自身に向けられる差別発言にそうした方針を採用すると、「いったんは受け止め」に留まらず、かつて自分自身の存在を否定しようとしていたもうひとりの私が、心の奥のほうで息を吹き返すらしい。私が存在してはならないと思っているもうひとりの私。(中略)「私は生きているべきではない」と考える私自身は、たとえシミュレーション的にほんのいっとき蘇っただけだとしても、手に負えない。生きることに絶望し、「将来の夢」を訊かれてもそもそも大人になった自分というものが想像さえできなかった子どものころの私が蘇り、私を子どものように泣かせてしまう。(80頁、太字強調引用者)

 言葉は多義的で、コミュニケーションには常に誤解の余地がある。それは遊びの余地でもあるし、暴力の余地でもある。「他者の痛みがわかる」ということがもしあるならば、それは聞き手が意味を占有してしまっているからだ。聞き手によって、語り手の気持ちは歪んで、しかしそれが正しいものとして、伝わったことにされるのである。そのとき、たとえばミソジニーといった社会的・文化的コンテクストは、コミュニケーションのポリティクスを支配する。女性の痛みは、シス男性に都合よく解釈されるのだ(無論、この女性には、トランス女性も含まれる)。それはコミュニケーション的暴力の典型のひとつであるという(18-19頁)。

 このように、著者は言語とコミュニケーションの哲学者として差別発言を冷静に分析する。それは込み入った議論にはなるかもしれないが、理解可能なかたちで示される語りになる。しかしそれでは「私のこの痛み」を表すことができない。私の苦しみについての語りは、「『感情的』で、理解しがたいもの」(同上)だからだ。

 つまり、本書にはふたつのレンズがあるのだ。哲学というレンズは、わたしたちの言語とコミュニケーションのポリティクスを冷静に暴き出す。しかしそれは「私のこの痛み」にふれるものではない。だからもうひとつの「私」というレンズで、哲学というレンズの歪みが映し返されるのである。わたしたちはふたつのレンズを切り替えて、見えるものの違いから新たな発見をしたり、またあるときにはその違いに目眩する。FPS視点とTPS視点を切り替えれば見える世界が変わるのと同じことだ。現実という、無限に分岐し、正規ルートのないゲームを、わたしたちは複数のカメラを操作しながらプレイし続けているのだと考えると、この広大なオープンワールドを生きるためには、わたしには旅の仲間との出会いと別れが必要だと、そう思えてくる。