【書評】ジャパノイズはぐるぐる廻る〜デヴィッド・ノヴァック『ジャパノイズーーサーキュレーション終端の音楽』(若尾裕訳、水声社、2019 年)

大学の課題で書いてどこにも出ることなく眠っていたWordファイルから。一部改稿したものの、エッセイ風味がなく、真面目すぎる……(本は抜群に面白いです。必読です)。以下より本文。

 少し迂遠な話から。ポストモダン文化人類学者、ジェームズ・クリフォードジョージ・マーカスによる『文化を書く』春日直樹他訳、紀伊國屋書店、1986年)は、人類学のみならず、社会科学や文化研究に決定的な影響を与えたとされている。フィールドワークを通じて他者の生活を記述するという方法(エスノグラフィー)により成り立ってきた文化人類学に対する根本的な批判の書だったからだ。

 以後、人類学では、誰が、どのようにエスノグラフィーを記述するかが問題になった。書き手は特権的な立場から引きずりおろされ、自己再帰的に書く(当事者研究はその派生型だろう)などといった新たな方法論への展開を見せた。そうした議論は今では当時ほど盛んではなくなったように思われるが、現在も参照されるべき視点であることに変わりはない。

 『文化を書く』の少し前には、エドワード・W・サイードによるオリエンタリズム(今沢紀子訳、平凡社、1993年。原著は1978年)が出版されている。サイードは「西洋」と「東洋」という対立が想像上の区分に過ぎないことを指摘した。「オリエント」という概念はオリエンタリストによる表象の産物であり、その表象から自らを疎外することによって、「西洋」もまた成立したのだとサイードは論じた。本書もまた、西洋近代のディシプリンの功罪を明るみに出した苛烈な批判の書だった。

 さて、ここまでふたつの文献を――それも極めて有名なものを改めて――取り上げたのには理由がある。ここに評する本が、このふたつの文献が明らかにした問題意識の延長線上に位置していると思われるからだ。
 ジャパノイズ。この言葉を見聞きするだけで、アンダーグラウンドの暗黒世界に誘われる気分になるのはわたしだけではないはずだ(実際内容もそのくらい刺激的だ)。本書はジャパノイズと呼ばれる音楽についてのフィールドワークを中心とした研究書である。

 著者はカルフォルニア大学サンタ・バーバラ校の民族音楽プログラムの准教授、デヴィッド・ノヴァック。博士論文の書籍化である本書は、1997年から2008年までの日本と北米でのフィールドワークがもとになっている。
 ジャパノイズのサウンドをごく簡単に形容すれば、それは聴く者の全身を粉々に砕くかのごとく爆発的な音量で演奏される、電子的、あるいは金属的な騒音の乱舞、とひとまず言えるかと思う。もしあなたがすでにその音に狂喜乱舞したことがあるならば、本書は必読だ。ジャパノイズが日本から海外へと直線的に波及したのではなく、トランスナショナルならせん状のループの中で形成された音楽シーンだということを知って、あなたはそのループからますます抜け出せなくなるだろう。逆にこれまでジャパノイズやノイズミュージックに無縁であったならば、そのハーシュ(厳しい、不快な、耳障りな、という意味のこの語は、ノイズ界隈ではそのサウンドが優れていることを形容して用いられる)な音世界に触れ、気づけば爆音のノイズで耳を塞いでいること掛け値なしだ。
 著者の場合、ジャパノイズと出会ったのは、大学の夏季集中コースで詰め込んだ日本語だけを頼りに1989年から1年間京都に住んだ後、アメリカに帰ってからのことだった。1980年代から、主に関西圏で制作されたアンダーグラウンドなインディペンデント・ミュージックのカセットテープがアメリカに多く流入していた。そこでジャパノイズという名で受容され始めた音楽があることを知り、驚いたという。アメリカでの成功を狙って輸出されてもいたJ-popの主流からほど遠い音楽だったからだ。

 北米でのリスナーを獲得したジャパノイズは、日本に逆輸入された。著者いわく、非常階段、メルツバウマゾンナ(本書の表紙は彼の演奏中の写真だ)といった日本のノイズミュージックシーンを代表する人々は、アメリカでの受容なしには日本の聴衆に知られることがなかった。つまり、ジャパノイズとは、北米と日本の相互フィードバックのループのなかで成立した音楽だと著者は主張する。
 こうした音楽の成立過程に立脚し、本書の著述スタイルもまた、らせん状に展開しているようだ。ジャパノイズはどこで生まれたのか、あるいはどのような影響関係のもとに作られたのかといった起源を見定め、各章を通じて少しずつ明らかにしながら一直線に追究するスタイルではない。著者の記述は、ノイズの演奏や聴取の美学はいかなるものか、日本と北米の各都市においてこのジャンルはどのように広まったのか、あるいは戦後日本の文化的な時代背景とノイズシーンの関連、さらにはカセットテープというテクノロジーがこのジャンルに果たす役割まで、多岐にわたる。日本と北米のあいだ、そして複数の問いのあいだをぐるぐると高速で移動するようにして著者は書く。その移動のなかからジャパノイズという現象の姿が浮かび上がってくる。
 副題にもあるサーキュレーションが本書の理論的なキーワードだ。実験的な音楽であるノイズは、固定的な性格づけを逃れて常に変転するものであると著者はいう。そこで、ジャパノイズを日本発祥のものと固定して捉えるのではなく、複数の文化のあいだに起きる現象であり、さらにそれ自体が文化を形作っていく動態として捉えることが重要だ。サーキュレーションは、高速でトランスナショナルに移動しながら変容するジャパノイズという現象を捉えるためのキーワードなのだ。
 ノイズが動的な現象である以上、著者のエスノグラフィーの書きぶりも、ノイズをはっきりと定義したり、あるローカルな地域内の出来事として還元したりすることはない。著者はいわばノイズと「共犯関係」になって、あえて曖昧さが残る断片的な書き方を心掛けながら、そのカオスな音楽シーンの成立と受容を論じる。訳者の若尾裕が述べるとおり、その記述はかつての「文化人類学者のエスノグラフィーに比べるとずっとアクチュアル」なものになっていると言える。

 そしてまた、このように書くことによって、ノイズは安定して継続的なディシプリンの対極に位置するものであることを著者は強調する。ノイズは分類不可能であり、何らかのカテゴリーにまとめられることを拒む。著者はオリエンタリストが東洋を完膚なきまで解き明かしてくれたようには説明してくれない。なにせ、本書のエピローグで著者自身「ノイズとは何かがわからない」と書いているのだ。ノイズを記述するのに、これ以上の誠実さがあるだろうか。著者はノイズを体系化してしまうことを徹底的に避けている。その姿勢に、クリフォードとマーカス、そしてサイード後のエスノグラフィーの方法をみてとることは的外れではないだろう。

 なお、北米でのジャパノイズの受容については、オリエンタルな眼差しがあったことも紹介されている。ジャパノイズというカテゴリーをつくりあげるため、海外のコンピレーション盤のアートワークに着物がはだけた人形や水着姿で包帯を巻いた女性といった、明らかに性的なイメージが用いられたことがあったのだ。インキャパタシタンツの美川俊治はこうした受容を批判していたという。そして、逸脱した性のイメージとの関連において受容されるのを拒んだ日本のノイジシャンは、ゆがんだラベルを取り払うため、自身でノイズを定義しなければならなくなったこともあった。
 また著者自身のジャパノイズへの眼差しもオリエンタルな眼差しに支えられていると見る向きもなくはない。訳者の若尾も述べているが、敗戦後日本のアイデンティティ危機やバブル崩壊後の資本主義の暗黒面の象徴としてAKIRA新世紀エヴァンゲリオンといったディストピア世界を描くSF作品が生まれ、それがジャパノイズと通底しているとする推論は、刺激的ではあるが、それは日本文化の理解としては大味……とまでは言わなくとも、少々強引であるように思う。そう思うのは、日本社会の変動とサブカルチャーとの関連を論じた部分だけがフィールドワークをもとにしておらず、日本文化を論じた先行研究をなぞるにとどまっているからかもしれない。著者の目と耳(特に耳)による裏付けがないのだ。もちろん、その推論が海外の研究者から見た日本文化と日本的なアイデンティティの表象を言い当てる議論として、貴重なものであるともいえる。本書の邦訳刊行によって議論が活発化し、トランスナショナルな視点によって日本や北米の文化を動態的に捉えられるようになることこそ、著者の主眼とするところだろう。

 さて、わたしは主にポストコロニアリズムの観点から読んだが、複数の場所と問いのあいだを飛び回る本書は、当然ここで取り上げた以上に雑多な思想の響きで満ちている。本書もまた、読む者にフィードバックを求めてやまないノイズなのだ(上手いこと言ってみた)。